稲川町今昔館の資料によると、稲庭干しうどんを初めて製造した人物として、佐藤市兵衛という名前が出てきます。市兵衛さんの作った干しうどんなどは、ほかの麺とはひと味違った、上品な味がしたと伝えられています。 このあとの寛文五年(1665年)に、稲庭吉左衛門(旧姓:佐藤)さんが、稲庭うどんの製造を始めたと、文献には残っています。
稲川町今昔館の資料によると、稲庭干しうどんを初めて製造した人物として、佐藤市兵衛という名前が出てきます。市兵衛さんの作った干しうどんなどは、ほかの麺とはひと味違った、上品な味がしたと伝えられています。
このあとの寛文五年(1665年)に、稲庭吉左衛門(旧姓:佐藤)さんが、稲庭うどんの製造を始めたと、文献には残っています。
もうすこし、くわしいお話をします。安土桃山時代は、信長・秀吉に領国安堵を働きかけたり、領国収入増加を図るため、特産品の開発が全国で進められた時期でした。佐藤市兵衛が、うどん職人を稲庭に招くか、市兵衛自身が製法を学んだと考えられます。 稲庭うどんの開発が数年で出来るものではありません。こうした時代背景を考えると、佐藤市兵衛が、小麦の栽培からうどんの製造まで長年携わってきた後に、ようやく製品化された、という推測されます。
「間もなく秋田藩主の御用品となり、文政12年(1829)には御用麺以外に「稲庭」の名称を使ってはならぬというお達しがありました。それでもニセ物が出回ったために吉左衛門は「取締りの役」に言い渡されています。」 (『稲庭うどん物語』)
また、このようなお話もあります。昔は、そうめんのように細かったが、旅の人から「板状の方がよい」といわれ、作ってみると美味しくなったというのです。これらの工夫が口伝によって伝えられ製造技術の伝統が守られてきました。 油を使わない製法によって作られた製品の一部が、「稲庭干しうどん」という名前になり、やがて単に「稲庭うどん」になっていきます。 当店では、この地元の名産を守るために、手作りを大切にしています。
→手作りの稲庭うどんが出来上がるまで